5分でわかる!エメリン・パンクハースト

名前は聞いたことあるけど、何した人か忘れてしまいがちなエメリン・パンクハースト。

「立ち上がれ!女性達!」

という言葉が有名な女性政治犯。イギリスで女性の「参政権」を勝ち取った人です。現在は多くの国で当たり前のように認められていますが、当時は1914年のイギリスは未だそうではありませんでした。女性は男性より地位が低く見られていたのです。

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少女期

西暦1858年イギリスのマンチェスターで生まれました。裕福な家に生まれ、子供のころからチャリティーやバザー会場で募金のお手伝いなどをしていました。

成長するに従って、女の子と男の子についてあらゆる疑問が出てきました。

  • 兄や弟たちはラテン語やギリシャ語の文学を教わることができるのか?
  • 女の子は裁縫や礼儀作法を教わる学校に行かなきゃいけないの?
  • いつだって女の子にだけあれこれ言いつけるの?
  • 何もしないで遊んでいるだけの兄弟のためにスリッパを揃えたり縫物をしたりしなきゃいけないの?

それらの答えはいつも同じでした。

(答え)レディーのたしなみを身につけて、立派な男の人に気に入られて、良い結婚をして、夫に仕えるのが女の子の幸せだからよ。

(エメリン)夫に「仕えて」いるの?女の人は男の人より下なの?

(答え)今の世の中では女の人は男の人に従うべきとされてるの。男性は体が大きくて強く心も強くて冷静なの。だから軍隊や政治などの大事な仕事に向いている。女性はか弱くて感情的で知性も劣る。だから家にいて家族の世話をして男性の決めたことに従えばいい。

(エメリン)力仕事をする女性だっているし、強い女性だっているわ。弟より私の方が勉強は得意。女性が男性より劣ってるなんて嘘よ。そんな考え方の人がいるから女性に参政権もないのよ。

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エメリン行動を起こす。

疑問を持ちながらもエメリンは21歳になるとリチャード・パンクハーストと結婚しました。

やがて3人の娘と1人の息子に恵まれます。

エメリンはリチャードと共に「独立労働党」に参加して貧しい労働者の暮らしを助ける活動を始めました。また党の推薦で貧しい人びとの暮らしを手助けする救貧委員というボランティアをしていました。救貧委員をしていると、法律は女性にばかり不利にできていることに気づかされたのです。

エメリン42歳の時、マンチェスターの教育委員に選ばれました。マンチェスター工科専門学校に抗議をしました。

「なぜ、女子を受け入れないのか?受け入れたとしても、学位も資格も得ることはできないのはなぜ?」

エメリンも答えは分っていました。

女子が技術を身につけて専門家として認められれば、男子は仕事を奪われてしまうかもしれない。要は優秀な女子の入学など入学など認めたら男子の就職先や給料が減ってしまうのです。

仕事も教育も子育ても不公平で女性で女性には自由がない。この不公平と不自由を無くすためには法律を変えていくしかない。法律を変えるためには女性の意見を尊重してくれる議員を投票で選ぶしかない。やはり重要なのは「女性の参政権。」

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長い試練の始まり。

エメリン45歳の時、「女性社会政治同盟(WSPU)」を結成しました。今こそ、私たち女性が自らの手で運動を始めるときです!とは言え、女性参政権を求める団体はすでにいくつもありました。いくら講演会を開いてもみんな無関心で言葉が届いている実感がない。

そんなとき、自由党の演説会で長女のクリタルベルとWSPUのメンバーであるアニーが質問をしました。

「自由党は政権をとったら女性に参政権を与えますか?」(当時、女性が政治批判めいたことを言うのは罪となっていた。)

二人は警察裁判所で1週間の刑務所入りとなりました。二人の狙いはそこだったのです。翌日の新聞には一面トップの記事となりました。その行為が良くても悪くてもいい。最大の敵を動かしたことが大事だったのです。最大の敵とは「無関心」なのです。この記事によってWSPUの運動は世間に知れ渡り同盟の仲間は増えていきました。

エメリンたちWSPUは集会や街頭演説を繰り返しました。人びとに訴えましたが、物を投げつけられたり、暴力を振るわれたり、怪我をしてしまうこともしばしばありました。

メンバーの人数が増えるにつれて、男社会の議会は弾圧法を決めていきました。12人以上の集団で議会に押しかければその場で逮捕するという法案でした。エメリンはWSPUの前で演説をします。

「これは脅しです!明らかに女性賛成運動を狙ったものです。厳しい罰をちらつかせて活動をやめさせようとしています。政府の思い通りになっていいのですか?私は女性参政権を求める請願書を首相に届けるつもりです。代表団に加わる者は?警察の暴力をおそれない兵士はいますか?」

メンバー全員が手を挙げたと言われています。

エメリンを含む13人で行動を起こします。法律通り、全員が逮捕されました。しかし、エメリンの狙い通りに翌日の新聞の一面トップを飾りました。裁判ではエメリンたちの反論は認められず、2か月もの有罪判決を受けます。エメリンは考えます。

「もっと!もっと!大きな声をあげなければ!この声が届くまで!ずっと!」と。

1908年6月21日エメリン50歳の時。WSPUの行進と集会が行われました。後に「女性の日曜日」と呼ばれた日があります。なんとその行進には50万人もの女性が集まったのです。この時にWSPUのシンボルカラーができました。

  • 紫は威厳
  • 白は純粋さ
  • 緑は春の希望を表す

この3色でシンボルカラーとデザインができました。このグッズが話題となりました。ここでもエメリンの演説は人々の心を打ちました。

「女には立ち上がることはできないだろうと男たちは言いました。しかし、見てください。私たちは今、目覚め、立ち上がったのです!」

しかし、50万人以上もの署名が集まっても政府が動くことはありませんでした。

「無関心」へのいらだち

50万人もの署名を無視されて、いらだったWSPUのメンバーの二人(イーディスとメアリー)はロンドンの首相官邸の窓ガラスに石を投げつけました。逮捕された二人はWSPUに手紙を出します。

「私たちは本部からの命令でなく、自分たちで決めて破壊行動を行いました。除名される覚悟はできています。」と。

WSPUの幹部のほとんどは、WSPUのためには彼女たちを除名したほうが良いという意見がほとんどでした。

しかし、エメリンは

「私たちの大切な仲間は誰であれ、決して見放しません!」と言いました。

二人が釈放された時には多くのWSPUメンバーがホロウェイ刑務所の前で二人を出迎えてパレードをしました。このことで世間からはWSPUの活動に疑問の声も上がり始めました。「犯罪者を英雄扱いするのか?」と。

その後、「議会に押しかけよう!」と書かれたチラシを配ったエメリンは暴動をあおったという罪で2ケ月間刑務所に。また請願書を持って首相官邸のドアをノックし、面会を求め続けたことでエメリンの妹が1か月間の刑務所に。次々とメンバーが逮捕されることが続きました。

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政治犯へのハンガーストライキ

刑務所にいる仲間たちを「政治犯」として扱うように働きかけることを始めました。今のままでは強盗や酔っ払いと同じ扱いになるからです。私たちのしていることは「政治活動」であることを世に知ってもらわなければならないと。

「政治犯」として扱ってもらうために、刑務所内でハンガーストライキの抗議を始めました。刑務所内で死んでしまうことは政府としての汚点になるのでこれだけは阻止しないといけない。政府はハンガーストライキをして体力の落ちていくWSPUのメンバーに「強制注入」を始めました。

「強制注入」とは鼻から胃の中まで長いゴムチューブを差し込んで、卵や牛乳を混ぜた液体を流し込む非常に乱暴なものでした。気絶するほど痛く、苦しく刑務所を出た後も心と体に深い傷が残りました。有名な医師たち100人以上が内臓を傷つけ病気になる恐れもあると反対声明を出したほどでした。

しかし、刑務所内でのハンガーストライキは続けられ「強制注入」もまた、ほかの女性参政権団体や政治家、国民の非難を浴びながらも、その後5年間にわたり続けられました。

ブラック・フライデー(暗黒の金曜日)

1910年エメリンが52歳の時。アメリカでの演説で大反響を受けた後、イギリス議会で動きがありました。なんと、女性参政権賛成派の議員たちが政党を越えた委員会を立ち上げたのです。女性参政権の新しい法律ができる兆しが見えてきたのです。やっと何かが変わるかもしれない。

ところが、期待は裏切られました。

アスキス首相は話し合いを進める気もなく、女性参政権の話もなく議会を解散したのです。

エメリンたちWSPUのメンバーは意見を伝えにデモ行進しながら議会に向かいました。

「女性に参政権を!」と口々に叫びながら。

最初に議事堂に着いたエメリンは見下ろした広場で目にしたのは、逃げ道をふさがれた無力な女性達への暴力でした。警官による暴行は5時間以上も続き、エメリンの妹を含む3人もの女性が、この日の暴力が元で命を落としました。

暴力によって、運動をあきらめさせようとした政府の目論見は完全に失敗し、逆に女性たちの心に怒りの火をつけたのです。

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女性たちの報復

ブラックフライデー事件で女性たちの反撃の狼煙が上がります。元々、エメリンは仲間を一番大事にしていたので、その理想はメンバー全員に受け継がれていました。運動が過激になっていきました。

  • 郵便ポストに放火
  • 首相官邸に石を投げつけ、15分おきに、婦人帽子店、百貨店、紳士服仕立屋など、WSPUのメンバーが次々とロンドン中心部でガラスを割って120以上が逮捕されました。
  • キュー王立植物園やリージェンツ・パークの建物への放火
  • 女性参政権に反対する大臣の建設中の別荘に爆弾を仕掛ける。
  • 運動場や駅、停車中の列車などが次々に破壊。

過激な運動の中、世界中の新聞に取り上げられ人々に大きなショックを与えた運動もありました。それは1913年にエプソム競馬場で起こりました。レース中の国王の馬にWSPUのメンバーであるエミリー・デイビソンが、たすきをかけようとコースに飛び出して馬にはねられて4日後に亡くなったのです。

エメリンはエミリーの葬儀で責められます。「若い女を犯罪に引き込んで死者まで出して満足か!」と。

何故、わかってもらえないのだろうか。女性にも男性と同じ人間としての権利を。ただそれだけなのに。女性の参政権を勝ち取るまでは戦い続けなければならないと心に強く誓います。

最期のデモ行進

エメリンはどんなに自分を痛めつけても(ハンガーストライキ)、破壊行動を繰り返しても、政府に首相に私たちの声は届かないことを知り尽くしました。

1914年エメリン56歳の時。ついに最後の手段である国王陛下に直接請願書を渡すことを決意します。メンバーに演説します。

「何があっても引き返してはなりません!血を流し、倒れても立ち上がり進むのです!国王陛下に私たちの声を届けるのです。女性に参政権を!」

WSPUのデモ行進と警官隊が激突します。この日エメリンを含む66人もの女性が逮捕されました。

その年に第一次世界大戦が始まり、イギリスはドイツとの戦争に突入していったのです。

戦争中は、女性参政権を求める運動は休止して、WSPUは女性たちに戦争を支える仕事を勧めました。男性たちが戦争に行って人手が足りなくなった職業に女性たちは進出しました。

それまで、ずっと男性のものと思われていた多くの仕事を女性たちはやり遂げました。女性は男性よりも劣っているから参政権を与えないと言わせない風潮になってきたのです。

戦争が終わりに近づいた1918年に21歳以上の男性全員と30歳以上の女性の一部に参政権を与える法律がついに成立したのです。エメリンは自分が国会議員となるため立候補の準備を進めていましたが、激しい戦いに傷ついた彼女の身体にはもうその時間は残されていませんでした。

享年69歳。

イギリスで21歳以上の全ての女性に参政権が認められたのは、エメリンが亡くなって2週間後でした。

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最期に

エメリン・パンクハーストは時に過激な活動を繰り返し、戦争を支持するかのような運動まで行ったエメリンの行動については、今でも成否を議論されることもあります。

しかし!

信念を持って声をあげ、行動することが「あたりまえ」を変えていく力になる。

エメリンの人生は私たちにそのことを教えてくれました。

エメリン・パンクハーストが残した言葉

  • 言葉より、行動を!
  • 女性は今でも、いつも男性のため子供のために戦ってきました。けれど今、女性たちは人間としての権利のために戦う覚悟でいるのです。
  • 私が法廷にいるのは法を破るものだからではありません。法を作る者になろうとする努力のためなのです。
  • この運動をやめさせる方法はたったひとつだけ。私たちを追放することでも、刑務所に閉じ込めておくことでもなく、女性を公正に扱うことです。
  • 権力を得た人々の意見はとても注目されます。しかし、まったく権力のない人々の意見は絶対に無視されがちです。
  • 立ち上がれ!女性達!

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