5分でわかる!ファーブル

いまでも世界中で読み続けられる「ファーブル昆虫記」それは誰にでも読むことができる輝く命の記録なのだ。ファーブルは自分の目で確かめた昆虫たちの生きる様子を分かりやすい文章で書き上げました。ファーブルがそんな人物だったのか一緒に見ていきましょう。

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生い立ち

少年期。

西暦1823年に南フランスのサン・レオン村で生まれました。名前をジャン・アンリ・ファーブルです。ファーブルの家はとても貧しい家だったので弟が生まれた時にファーブルはおじいさんの家に預けられていました。おじいさんの家は荒野の真ん中になり、豊かな自然や生き物たちは、幼いファーブルの心を鷲づかみにしたのでした。自然への興味を持っていきました。

小学校に上がると両親の元に戻ってきました。字を読むのは苦手でしたが、ある日お父さんが動物の絵がたくさん載った薄い本を買ってきてくれました。大好きな動物と一緒だとどんどん覚えていきました。知らないうちに難しい本まで読めるようになっていたのでした。

ファーブル一家はお父さんがカフェを開くために、ロデーズという大きな町に引っ越してきました。大きな町に来てもファーブルの成績は優秀でした。しかし、父親のカフェは4年で潰れてしまします。その後も、街を変えてカフェを開きますが借金が膨らむだけでちっともうまくいきませんでした。

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ひとり立ち。

家が貧しいため、ファーブルは15歳になると家を出されて一人で生活することになったのです。その日から、仕事と宿を探す生活がはじまりました。子供の稼ぎは少なく野宿をしなければならない日もありました。当時はそういった苦しい生活を送っている子供たちがとてもたくさんいたのです。

ある日、アヴィニョンの師範学校が生徒募集の広告が新聞に載っているのを偶然知りました。ここに入れば食事の心配をしなくてもいいと考えて、ファーブルは試験を受けることを決意しました。試験の結果はむずかしい試験だったのにたった1回目で1番で合格しました。ファーブルはこうして苦しかった一人暮らしを終えて新しい一歩を踏み出しました。

ファーブル(19歳)になると、カルパントラ町で小学校の先生になりました。ファーブルの授業はとても分かりやすく生徒たちにとても人気がありました。いつもどうしたら楽しく学べるかを考えていました。

ファーブル(21歳)の時には、同じ学校の先生だったマリー・ヴィヤールと結婚しました。そして翌年には長女エリザベートが生まれました。しかし、一年後にはエリザベートは幼い命を終えてしました。次に生まれた長男ジャンまでも病気になり、ジャンも亡くなってしまいました。続けて2人の子供を失った悲しみははかりしれないものでした。

小学校教員とはいえ、給料は少なく苦しい生活でした。その悲しみから逃れるようにファーブルは勉強に打ち込み独学で数学と物理の学士号を取りました。これで中学校教諭になることができたのです。

転機。

ファーブルとマリー夫婦はコルシカ島のアジャクシオという町の中学校に物理の先生として赴任しました。ファーブルは学校の休みの日には島中を歩き回って植物や虫を調べたり、貝を拾って標本を作ったりしました。この時期に念願の子供だった、次女アンドレアが生まれました。

島では植物学者のルキアンと出会い、ルキアンさんのお手伝いもしていました。ファーブル(28歳)の時に運命の人と出会います。トゥールーズ大学の博物学者モカン・タンドンでした。二人は昼は島の植物を調べ、夜は遅くまで学問についてたくさん話をしました。モカン・タンドンの知識は幅広く、ファーブルは感動します。

ある日の夜、モカン・タンドンはファーブルの家で、カタツムリにも心臓、胃、肺があります。カタツムリを解剖しながら、モカン・タンドンは話します。

「ファーブルさん、博物学をやりなさい!博物学とは命の事実を突き止める学問なのです。あなたは自然を深く愛しています。その素質があります。」と。

博物学に目覚め、博物学の勉強を始める。

ファーブル(31歳)の時、3女のアグラエが生まれました。同時にトゥールーズ大学で博物学の学士号を取る。

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論文による賞賛と非難。

ある日、レオン・デュフール昆虫学者の論文に出会います。それはタマムシツチスガリをあつかったものでした。

「デュフェールはハチの巣の中で腐ることなく保存されたタマムシの死骸を見つけました。餌となるタマムシはハチの幼虫が食べつくすまでずっと新鮮なままだったので、デュフェールはこのハチの毒針には物を腐らせない特別な効果があるのだとしました。」

これを読んでファーブルは本当かな?と疑問を持って自分の目で事実を確かめることにします。ファーブルは休日になるとカンパントラにある崖のそばの道に通いました。ここにはコブツチスガリという狩りバチがたくさん巣を作っていたからです。そして餌として運んでくるゾウムシを探しました。

ファーブルは色々な実験や観察の結果、ゾウムシは動けないだけであることを突き止めました。さらに観察の結果、コブツチスガリはゾウムシの神経の中心を刺すことで動けなくしてしまうことを見つけ出したのです。虫たちの驚くべきこの行動をファーブルは「自然科学年報」という雑誌に発表しました。これが「実験生理学賞」を受賞してしまったのです。

ファーブルはますます昆虫たちを調べて回るようになります。遠くまで出かけては昆虫たちの生活を観察していました。その反面、「素人が学者気取りで書くな!」という批判もありました。人付き合いの悪いファーブルの人気を妬む人がたくさんいたのです。博物学の学士があっても、ファーブルは中学の先生でしかないのです。結局批判さらされて、長い間務めた教師の職を失うことになりました。ファーブルが45歳の時でした。

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理想の地アルマス。

1870年にファーブル一家(3女2男)6人家族はオランジュに引っ越してきました。収入がほとんどなかったので以前よりももっと苦しい生活になってしまいました。息子ジュールは、ファーブルに負けないくらい自然が大好きで目を閉じて触るだけで何の植物か当ててしまうほどでした。そのため、ファーブルの優秀な助手でした。しかし、ジュールは元々身体が弱く悪性の貧血症でした。病気は確実に進行していったのでした。ジュールは16歳で亡くなりました。ジュールの死によってファーブルは熱心に筆を走らせました。これが「ファーブル昆虫記1巻」となります。

その後、ファーブル一家はセリニャンという村のはずれにある家を手に入れました。広大な敷地を手に入れたのです。理想の地アルマスと名付けました。たくさんの植物を植えて昆虫の楽園にしました。人目を気にしなくてもいいし、遠くまで出かけなくても身近に研究基地を作ったのでした。

家族やたくさんの人に支えられて「昆虫記」の執筆は続きます。およそ、3年に1冊のペースで「昆虫記」は出版されていきました。しかし、文章が易しすぎて重みがないと、学者からは不評の声が上がります。しかし、ファーブルには目的があったのです。誰にでも昆虫のことが分かってほしい。見たことだけをありのままに書くこと。わざと難しくする必要なんてない。

ファーブル(62歳)の時、妻マリーが亡くなりました。娘たちも結婚して家を出ました。アルマスはすっかりさみしくなりました。しかし、すぐに再婚すると新たに3人の子供に恵まれました。

そして、「昆虫記」が10巻を迎えたとき、ファーブルは84歳になっていました。昆虫記の評判は巻数を重ねるにつれて、その素晴らしさに気づく人々が増えていきました。そうした人々の中で「昆虫記」の評判はゆっくりと上がっていったのです。しかし、売上は大きくありませんでした。

そんなフアンたちが集まって、ファーブル先生の長年の努力を称えるためのにぎやかな記念式を開くことにしました。1910年4月3日、ファーブルの日。それは31年前に「昆虫記」の1巻が発売された日でした。思った以上の人が集まり、「昆虫記」の話で盛り上がったと言います。

1915年10月11日にファーブルは91歳の生涯を終え、静かにこの世を去りました。墓には生前の言葉が刻まれています。

「死は人生の終わりではない。さらなる尊い人生の入り口なのだ」

ファーブルの残した言葉

  • 昆虫という小さいものの中に、大きな驚きが隠されている。
  • まず、考えること。すぐ、ほかの人に聞くのは良い勉強方法ではない。
  • 自由は規則をつくり、強制は混乱をつくる。
  • 休む暇のない時ほど幸せなことはない。働くこと、これだけが生き甲斐である。
  • 自分が知らないことを恥ずかしがらず、分からないことは分らないとはっきり言おう。
  • あなたの不幸がいかに大きくても、最大の不幸とは絶望を受け入れることだ。

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