5分でわかる!ガンジー

Mohandas Karamchand Gandhi (1869-1948), a major Indian political and spiritual leader who led the Indian independence movement.

ガンジーといえば、非暴力でインド独立を勝ち取った人ですけど、詳しい話を知りませんよね。一緒に学んでみましょう。

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生い立ち

少年期から青年期

西暦1869年インドの西部の港町で裕福な家庭に生まれました。ガンジーの父はインド西部の小国の総理大臣で王の信頼が厚い誠実な人物でした。

13歳で結婚しました。インドでは普通でした。

19歳の時にガンジーは弁護士になるためにイギリスに旅立ちました。当時のイギリスはインドを始め、世界の四分の一を植民地にして支配していました。

イギリスで「聖書」に感動しました。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。」暴力に対しては愛で答える。インドの有名な聖典と同じことが書かれていました。暴力こそが野蛮なことで誰もが愛し合い認め合うべきなんだ!

21歳の時に弁護士の資格試験に合格しました。インドに帰国すると優しくて愛情深い母が亡くなっていました。心配すると思ってガンジーには知らせませんでした。

インドに帰国してしばらくすると、弁護士事務所を開業しました。ある日、南アフリカから弁護の依頼が舞い込んできたので、南アフリカに向かいました。

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人種差別

南アフリカもインドと同じイギリスの植民地でした。南アフリカのナタールに着いた途端。

ガンジーは人種差別に合うのでした。イギリスでのイギリス人は親切でしたがナタールでのイギリス人の差別は酷かったのです。

インド人の文化であるターバンを取れ!

汽車で一等車の乗車券を買っているのに、貨物車に乗れ!とか降りろ!などを言われました。

ガンジーは絶対に認めてはならない!と心に誓いました。

依頼された弁護の仕事を終え、インドに帰国しようとした時に、ナタールでのインド人の選挙権を奪う法案が出されたのです。

ガンジーは動き出します。

選挙権を奪われる法案の反対する請願書を議会に送り届けました。ガンジーを中心とした反対運動はわずか2週間で1万人もの署名が集まりました。しかし、法案は議会で成立してしまいました。

ガンジーはナタールに残って一緒に正義を貫くことに決めました。

「ナタール・インド人会議」を設立して活動を始めました。

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ナタール・インド人会議

イギリス政府はナタールのガンジーたちの活動が邪魔で仕方ありません。次々と嫌がらせのような法律を成立させていきました。ガンジーはインドに一時帰国してインドの各地をまわり、南アフリカでのインド人の状況を訴えました。また、パンフレットなどを作り、世界中の人たちにインド人の苦しい立場を知ってもらうよう行動しました。

ガンジーの書いたパンフレットは「愛による解決が基本」だったので世界中で読まれ大変な反響を呼びました。

1年後、家族を連れて、ナタールへ戻ります。ここで根を張って、「解決する!」というガンジーの覚悟でした。

それを証明する出来事として、ナタールに戻ってきてすぐに暴力事件にあいました。その取材を受けた時に、

「暴力をふるった人に厳罰を求めますか?」の問いに

「いえ、私が憎んでいるのは暴力であって、暴力を振るった人達ではないのです」と答えました。さらに

「愛を持って誠実に話せば、かれらもきっとわかってくれるはずです。」と。

その記事は多くの人たちの心に訴えるものでした。

ちょうど、その頃、「ボーア戦争」が起こりました。ボーア戦争とは、イギリスとオランダ系移民の子孫ボーア人との間で南アフリカの植民地を争った戦争です。

「ナタール・インド人会議」は議論が白熱します。反イギリス軍につくか、イギリス兵としてつくか・・・

ガンジーの一言で決まりました。

「人を殺しあう戦争は悪いことだ。だから戦うのではなく、救護兵としてインド人は参加しましょう!」こうしてガンジーの作った救護隊はたくさんのイギリス人を助けました。

しかし!戦争が終わると、イギリスに裏切られました。

ひどい弾圧法が出されたのです。インド人には登録証明書の持ち歩きの義務付けたのです。

そこで、ガンジーは

「非暴力・不服従運動」の展開を始めた!

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非暴力・不服従運動

弾圧される法律には従わない。それによって罰せられるとしても我々はそれを受け入れるのです。それは戦わないことで、武器を持たない者も全てが参加できる運動なのです。

この運動によって、逮捕者が増えすぎて、刑務所がいっぱいになってしまいました。しかも植民地にいる者が働かなければ美味しい利益はイギリス人には入ってこないのです。これに音を上げたのがインド人問題の責任者であるスマッツ将軍でした。ガンジーとの取引で

「この法律はやめるからインド人の運動をやめさせてくれ」と。

ガンジーは、これでナタールが平等でひとつの国になれると信じました。

しかし、口約束は簡単に反故にされてしまったのです。またもや、ガンジーはイギリス人に騙されてしまいます。

しかし、ガンジーは根気よく非暴力・不服従の運動を続けます。各地を回りナタール全土のインド人に訴えました。ガンジーは何度も何度も逮捕・投獄されました。

この頃になると、イギリスでもスマッツ将軍のやり方に強い反発が起こりました。ついに、ガンジーが45歳の時、非暴力・不服従運動は実を結び

「インド人救済法」が制定されました。

こうしてガンジーはインドに帰国しました。

インド帰国

ガンジーがインドに帰国した頃、ヨーロッパは第一次世界大戦をむかえていました。戦争になれば植民地の人間は戦場に駆り出されます。ヨーロッパの戦場は、機械の力によって人間が紙くずのように殺されていく。技術とはいったい何なのだろう。

第一次世界大戦が終わった時には1000万人以上の命が失われ、インド人も15万人が戦争の犠牲になりました。

戦後すぐに、「ローラット法」が作られました。

ローラット法とは、かつてナタールで受けた仕打ちと同じようなものでした。インド人は捜査令状もなしに逮捕・投獄でき、まともな裁判も受けることができないという法律でした。

「ローラット法」に対して、ガンジーは立ち上がりました。再び!

「非暴力・不服従運動」で対抗します。

ガンジーの呼びかけに応えて、インド全土で「ハタハール」が行われました。ハタハールとは喪に服して家にこもり祈りを捧げることです。町には人っ子一人誰もいなくなりました。ガンジーの圧倒的な存在感と大きさをイギリス側は感じました。

しかし、アムリトサルでしびれを切らせたイギリス軍が市民を攻撃して1500人以上が死傷しました。

このことで、心を痛めたガンジーは、インド全土にさらに声をあげます。

「インド国民会議全国大会」で演説します。

「いかなる人でも参加できる非暴力不服従運動を!みなさんはイギリスの支配に協力することになる役所・学校・職場から立ち去りましょう。イギリス製品を買うのはやめましよう。利益がなくなれば彼らは立ち去ります。」

不買運動は、産業革命によってイギリスで作られた製品の方が安いのですが、自分で糸をつむぎ糸車を回し作ることであらゆる人に仕事が回るということも説いて回りました。

さらに、インドがひとつになるように、宗派を越え過去の対立を乗り越え共にひとつの理想を目指すことを説きました。これにより、ヒンズー教とイスラム教の団結ができました。

様々な人がガンジーに教えを請いに来ました。そのたびに同じことを話したと言います。

「野蛮には理性を、敵意には友愛を。それこそが未来を照らし出す真実の光ですよ。」と。

逮捕・投獄され病気にもなり、体は弱くなっていきました。

ガンジーが61歳の時有名な「塩の行進」を行います。当時イギリスは法律で潮を専売としてインドに30%もの税金をかけて苦しめていました。「塩の行進」とはイギリスに従わず、私たちのための塩を私たち自身の手で作りましょうという運動でした。この運動によってまたもやガンジーは逮捕・投獄されます。

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そしてインドは激動の時代へ

ガンジーを中心としていた「インド国民会議」では2大巨頭に分かれていったのです。

1つはヒンズー教中心のネルーを指導者にしたグループ。

1つはイスラム教を中心としたジンナーを指導者にしたグループでした。

その外側の世界では第二次世界大戦が始まっていたのです。

「インド国民会議」で重要な話し合いが行われました。議案は、今回の戦争でイギリス軍につくかつかないかの決定でした。

ガンジーは決断しました。

「彼ら(イギリス)は今まで、約束を一度たりとも守ったことがない。インドからただちに立ち去るべきだ!」と。

ガンジーはインドの総督に立ち去るべきという嘆願書を提出しましたが、逮捕され家に軟禁されます。その時に最愛の妻カストゥルバが亡くなります。彼女はイギリス軍と戦い続けた夫を支え続けた偉大な人生でした。

1945年8月に第二次世界大戦は終わりました。イギリスは2度の戦争に疲れ果ててついにインドを手放す決意をしました。

インド独立

インドは独立しましたが、2大政党により混乱しました。宗派による分裂でした。ヒンズー教徒イスラム教の対立は日々激化していきました。インド人同士での殺し合い、激しい内戦状態は3年も続きました。60万人以上の人びとが亡くなりました。

結果、インドは、インド東パキスタン・西パキスタンという2つの国に別れて独立しました。

そんなインド独立記念式典にガンジーは欠席しました。

ガンジーはヒンズーとイスラムが兄弟のように手を取り合わなければ意味がないのではないか。お互いに思いやるという、人としての心を取り戻すためにガンジーは断食を決意します。高齢となったガンジーの断食を止めさせるために、ヒンズー教指導者ネルーとイスラム教指導者ジンナーは和平を結びました。

しかし、

断食していた場所から出てきたときに、過激なヒンズー教徒から銃によって暗殺されてしまいました。

マハトマ・ガンジー享年78歳。

この衝撃なニュースは全世界に深い悲しみとなって流れました。

サブスクで毎月生花のある生活。愛のある日々に感謝ですよね。

ガンジーの残した言葉

  • 個人的な利益を得たくてする断食は、脅迫と同じことです。
  • 悪との非協力は、善との協力と同じく、人間の義務であります。
  • わたしは神とは命であり、真理であり、愛であると思います。
  • 私たちは、刑務所の門を広げ、花婿が花嫁をの部屋に入るように入っていかなくてはいけない。
  • もし、インドが暴力で独立を達成するなら、インドは私の誇りとする国ではなくなるでしょう。
  • どんな社会も、個人の自由を否定したら、成り立たないでしょう。

毎日、会社や大学に着ていく服も買わなくて、サブスクでコーディネーターが選んでくれるからとってもおしゃれで楽。

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