5分で分かる!グレース・ケリー

グレース・ケリーと言えば、ご存じの通り、ハリウッド女優で数々の映画に出演していますよね。例えば、「ダイヤルMを廻せ。」「裏窓」「喝采」などです。そして、モナコ王国の王子と結婚して、プリンセスになる女性です。彼女がどんな生き方をしてきたのか一緒に見てみましょう。

生立ち

1929年アメリカ合衆国ペンシルバニア州のフィラデルフィアで生まれました。父親は一代でレンガ会社を築き上げた裕福な家に育ちました。父のジョンはボート競技でオリンピックの金メダルを取るほどのスポーツマン。母親のマーガレットも水泳選手で体育の先生でした。ケリー家は4人兄弟でした。グレースは三番目でした。兄弟は健康で元気のよい子供たちでしたが、グレースだけは身体も弱くて運動を好みませんでした。その分、熱心に本を読むし芸術方面に興味がありました。

12歳になったグレースは姉のペギーと一緒に地元のアマチュア劇団の舞台に立っていました。誰かがセリフを忘れた時にはバックを落として近づいて耳元で教えたり、あらゆる方法でセリフを教えてあげていました。そう、グレースは出演者全員のセリフを覚えていたのです。この頃から、グレースはお芝居がとっても好きで女優になる夢を密かに持っていました。

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夢に向かって

18歳になったグレースは両親に、「演劇の学校に進学したい!」と話しました。両親はニューヨークに行くことも、演劇をやることにも反対しました。グレースは何度も話をしました。遂に、父親がオーディションに受かれば行っても良いと認めました。グレースはニューヨークの演劇の名門校アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツにあっさりと合格してしまいました。グレースは学校での課題を生まれ持った観察力で表現します。酔っ払いやお巡りさん、工事している人など。全力で演技するグレースは先生たちに評価されました。

演劇の勉強をしながら、モデルの仕事を始めました。美しい金髪にブルーの瞳、スラリとしているけど細すぎない体型。たちまち人気が出てたくさんお雑誌の表紙を飾り、テレビCMにも出現。演劇学校に入って一年もたたないうちに自分の力でアパートも借りてしっかりした生活していたのです。けれど、グレースが本当にやりたかったのは舞台の仕事でした。しかし、舞台の役には恵まれませんでした。

学校を卒業した22歳の時にはテレビドラマに数多く出演するようになり、注目され始めたグレースにチャンスが訪れます。

「真昼の決闘」の映画の出演でした。グレースは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのあるゲーリー・クーパー主役の妻の役でした。撮影が終わり、映画鑑賞会で自分の演技を見て、グレースは愕然とします。自分はなんて無表情でスクリーンから何も伝わってこなかったのです。グレースはもう一度演劇の学校に行くことに決めました。皆さんも覚えがあると思いますが、大人になってもう一度学校に行くと知識への貪欲さが違いますよね。本当に学びたいのとただ行くのとでは全然違うのです。グレースはメキメキと実力をあげていきました。

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ヒッチコック監督との出会い

24歳の時、グレースは運命の人と出会います。当時サスペンス映画で世界的に有名な監督「アルフレッド・ヒッチコック」です。ヒッチコック監督は映画「ダイヤルMを廻せ」でグレースを主人公に抜擢しました。この時にグレースは芝居は表情だけでなく指先など全身で表現することを知るのでした。最後グレースが殺されるシーンでは手しか映っていません。ヒッチコック監督はそこにこだわったのです。

その後、ヒッチコック監督の「裏窓」にも出演してグレース・ケリーはハリウッド一の人気女優となっていました。

そして、グレースの人気を不動のものとした作品「喝采」に主演します。グレースが演じた主人公は地味なタイプでそのぶんとても演技力が必要な役でした。公開された「喝采」は大ヒット!批評家もその演技を見て絶賛!名実ともにハリウッドスターとなりました。この年にはヒッチコック監督の「泥棒成金」をはじめ、多くの作品を撮影しました。

1954年のアカデミー主演女優賞では、「喝采」のグレース・ケリー(25)が選ばれました。スクリーンデビューからわずか5年で彼女は女優として最高の名誉を手に入れたのです。

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モナコ大公との結婚

翌1955年アカデミー賞女優としてフランス政府からカンヌ映画祭の招待を受け、グレースはフランスのパリからカンヌへと向かっていました。雑誌の企画でモナコ公国の大公と会うことになりました。モナコ公国とは世界で二番目に小さい国ですが、ヨーロッパの大国に囲まれながらも700年以上独立を保ち現在でも「地中海の宝石」に例えられている美しい国です。僕は、モナコグランプリで街中をサーキットにしてF1が走り回るイメージで魅力的で興奮します。

モナコ大公はとてもきれいな英語を話し、君主様なのにとっても親しみやすい方でした。時が経つのを忘れるほどグレースは心地よい時間を過ごしました。

グレースは宮殿を訪れた後、レーニェ公(モナコ大公)にお礼の手紙を書きました。そこから手紙や電話を通じての二人の交流が始まったのです。そして、1956年1月6日二人の婚約が発表されました。その年の4月19日モナコにて二人の結婚式が盛大に行われました。この結婚はまるでおとぎ話のような出来事として世界中に報道されました。

けれど、「現代のシンデレラ」の物語はここからが本当の始まりだったのです。

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グレース公妃

グレースは最初に長女カロリーヌをご出産し、翌年にはモナコ公国の世継ぎとなる長男アルベール公子をご出産しました。グレースは自分の乳で育てることで、公妃である前に母親であることが国民に支持されました。子供たちには、自分のことは自分でできる人間になってもらうために、お皿の上げ下げから生活の全てを変えました。

また、モナコの公妃としての公務も活発になりました。各国を次々と訪れてモナコの顔として重要な役割を果たしたのです。

国内では、予算がなくて良いサービスができない福祉関係などがありました。予算がないなら、お金を作ろうと赤十字のチャリティ舞踏会をもっと盛大にすることにしました。グレースは年1回の舞踏会に各国の王室の人々や女優時代の友人など世界中のの有名人が出席し、集まった基金は働く母親や孤児、妊婦のための施設の援助などに幅広く使われました。また「グレース公妃基金」の立ち上げて世界中の芸術家を支援しました。

さらには、女性が選挙に参加できる憲法も改正しました。女性の参政権が認められたのです。そして次女のステファニーをご出産して3人の子の母親となりました。

1981年に家族で日本に公務として訪日しました。桂離宮や有馬温泉などを訪問し、日本の文化と美しさ、歴史に感動された逸話も残っています。モナコには日本庭園が造られたほど日本を愛してくれました。

また、イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式にも出席して、ダイアナ妃とは仲の良い友人となりました。

これから先、グレースは世界中の人々と交流を重ねて、愛らしい性格で世界平和と唱えていく人物になるであろうと期待されていました。

しかし、運命は残酷でした。

1982年9月13日 グレース公妃は運転中に脳内出血を起こして、意識を失い崖下に転落して亡くなったのです。

グレース・ケリーは52歳で生涯を終えました。

グレースの死後、長女カロリーヌは公妃の仕事を引き継ぎ立派にその役目を果たすようになりました。大公となった長男アルベールは観光・経済に加え環境の国としてもモナコを発展させるべく日ごと努力を続けています。次女ステファニーは母親の才能と意志の強さを受け継ぎ芸術の方面やボランティで活躍しています。

自分の選んだ道を進むための努力を惜しまず、常に周りの人を愛し、そして愛されたグレース・ケリー。彼女の墓には今も花が絶えることはありません。

グレース・ケリーが残した言葉。

  • 自分の気持ちには従うべきだと思います。私はいつもそうしてきました。
  • 優しさ、礼儀、美、敬愛といった美徳を日本が失わないことを世界中が切望します。
  • 自分の直感や第一印象を信じるのです。
  • 「喝采」に出演しなければと瞬時に思いました。とても強い役柄だったから。だから私は懸命に演技したのです。
  • 私たちは理想的な親ではありませんが、最善を尽くしました。実を見れば木がわかります。
  • 私の結婚は「おとぎ話」と言われたけれど、現実には続きがあるの。

ラクして安くスベスベツルツルお肌に。

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