5分でわかる!葛飾北斎

葛飾北斎は江戸時代の画家ですよね!僕たちが知ってるのは「富嶽36景」の富士山が有名ですよね!海外でも評価されてる画家ですよね。葛飾北斎は江戸時代のどの時代を生きて、どのように生き抜いたのか一緒に見てみましょう!

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生立ち

1760年に武蔵の国(東京都墨田区)で生まれ、幼少期を過ごしました。名前を時太郎と言いました。生まれてすぐに御用鏡師の家に跡取りとして養子に入りました。しかし、手伝いなどろくにしなくて、絵筆を取って目に映る様々なものを描いていたといいます。

少年期

13歳になると鉄蔵と言うなで呼ばれ貸本屋で働くようになっていました。貸本屋でも、絵師の真似事をしては大旦那に叱られていました。しかし、鉄蔵の描く絵は取引先には人気がありました。しかし、この時代でも、絵ではそうそう食ってはいけないのです。絵師になるには偉い先生に弟子入りして下積みをして何年も修行して一人前になっても絵で食っていけない人もいました。しかも、絵を描いてばかりの鉄蔵は養子先から結局実家に戻されて家は貧しかったのでした。

そんな中で貸本屋の大旦那は、鉄蔵に絵師に一番近い仕事を紹介しました。

鉄藏は浮世絵の制作過程を学びました。

  • 版元が作品の企画をする。
  • 絵師が墨一色で版下絵を描く。
  • 版下絵をもとに主版を彫る。
  • 主版から墨一色の「校合摺」を何枚もする。
  • 絵のどの部分をどの色にするか決め校合摺1枚につき一色ずつ割り当てる。
  • それぞれの色を割り当てられた校合摺をもとに色ごとの版木を彫る。
  • 色ごとの版木を決まった順番で1枚の紙に摺っていく。
  • 完成。

浮世絵ができるには、絵師だけではなくたくさんの職人が関わっているのです。

こうして鉄蔵は版木彫りの仕事を始めました。

2年後、15歳になった鉄蔵は、黄表紙「楽女格子」の文字彫りを任されるなど、彫職人としても才能を発揮していました。彫職人よりも絵師になりたいと強く願う鉄蔵は、浮世絵工房を辞めてしまいました。

その後、彫師をしていたころに、「勝川春章」の描く絵が大好きだった鉄蔵は「勝川春章」のアトリエに弟子入りしました。ここでも、絵の才能と熱心さで、わずか19歳で師匠である「勝川春章」に認められました。画号も与えられました。なんと師匠の2文字をもらい受けるほどの特別扱いでした。絵師の世界では師匠に画号をつけてもらうことは一人前と認められた証でした。

「勝川春朗」

鉄蔵の破格の出世に不満を持つ者。納得する者。期待する者。様々な反応をよそに絵師としての陣ン世がいよいよ始まったのである。

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破天荒の絵師。

絵師となった鉄蔵は水を得た魚のように仕事に励みました。浮世絵だけではなく、何でも描く鉄蔵の元には次々と依頼が舞い込むようになります。

しかし、1982年に「天明の飢饉」が始まりました。米の値段が上がり生活が苦しくなった町人たちの不満は税を集める幕府に向かいます。幕府は倹約のため町人の贅沢を禁じ、この政策を批判するような小説や浮世絵を厳しく取り締まりました。飢饉から数年後、鉄蔵(30歳)は生活のために唐辛子売りなどをしてお金を稼いでいました。

そんな中、鉄蔵は蔦屋重三郎という本や浮世絵の出版と販売を手掛ける「版元」を営んでいる人物に出会いました。この出会いの後、蔦屋からは鉄蔵の手がけた役者絵が多く出版されます。鉄藏の才能に目を付けた重三郎は本の挿絵も次々と鉄藏に依頼し「勝川春朗」の名前は江戸の人々に広く知られるようになりました。

さらに鉄蔵は勝川派だけでなく他派や外国の技法を積極的に学びました。しかし、当時の絵師の世界ではほかの流派で学ぶことは自分の師匠に失礼に値することだと考えられていました。そのために兄弟弟子である「春好」から「勝川流派」から追い出されます。破門に近い形で勝川一門を離れた鉄蔵はこののち、並々ならぬ努力を重ね一台人気絵師へと飛躍するのです。

俺の道

鉄藏は名前を「北斎辰政」と名乗り、「亀図」を描き知人や版元に配ると、どの流派にも入らず独自の絵の道を追求していきます。

北斎は流派へのこだわりはありませんでしたが、絵師としての誇りは高く自分の絵を決して安売りしなかったのです。

江戸時代の後期、ヨーロッパでは日本の浮世絵が注目を浴び、ヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えていました。一方、日本の絵師たちもヨーロッパの美術の影響を受けました。北斎は生涯を通してヨーロッパの文化に興味を持ち絵にも西洋絵画風の様式を取り入れています。

北斎の絵に対する探究心は技法や様式を学ぶだけにとどまりませんでした。1804年護国寺の境内で、わらを束ねた特製の大筆で、巨大な達磨の半身像を描いて見せました。あまりの大きさに見物人たちは、神を櫓から吊り下げて見るまで、何を描いたのかわからなかったといいます。この大達磨絵は反響を呼び北斎の名前はますます高まりました。

しかし私生活では、生涯に二度結婚をしました。それぞれの妻との間に3人ずつ計6人の子供がいたといいますが、北斎がどんな家庭生活を送っていたのかはよくわかっていません。

「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴と仲が良く、「新編水滸画伝」や「鎮西八郎為朝外伝」などの名作の挿絵を手掛けていました。また同じ時期に手書きの肉筆画も多く手掛けています。「酔余美人図」「潮干狩図」などである。この時期の北斎はそれまで学んだ数々の技法を自分のものとして消化し浮世絵師の枠を飛び越えてさらなる高みを目指していたのです。この頃から「葛飾北斎」の名前を使い始めました。

また、弟子も多く増えてきて北斎が心置きなく自分の絵を描ける時間は削られていたのです。自分の時間を作るために「絵手本」を作りました。動物、魚や貝、人の営み、風景、植物など確かな観察眼と圧倒的な画力で表現されました。そして、北斎の代表作となる一大ベストセラーが刊行されます。ありとあらゆるものを北斎が漫然と描いた画集「北斎漫画」である。

晩年

北斎が67歳の時に、脳卒中で倒れます。命は助かりましたが手足が動かしにくくなりました。自ら調合した漢方薬により奇跡的な回復をしました。いつ死んでもおかしくないと悟った北斎は旅に出ます。そして描いたものが誰もが知る「富嶽三十六景」です。迫力のある構図と「ベロ藍」と呼ばれた鮮やかな藍色に江戸の人々は夢中になり、錦絵の世界に「風景画」という新しい分野が生まれたのでした。

また、北斎は様々な場所へ旅したことでも知られています。長野県では祭屋台の天井絵を描き「鳳凰図」「龍図」「女波図」「男浪図」が有名です。

江戸・向島の牛島神社では「須佐之男命厄神退治の図」は横幅が3メートル近い大作です!

最期に描いた絵は「富士越龍図」と言われています。

1849年北斎は浅草で息を引き取ります。享年89歳。飛躍を繰り返し死の間際まで自分の画風を追い求めた生涯でした。

どんな時も描くことへの情熱を失わず次々に新しい作風を生み出し続けた葛飾北斎。その作品は日本にとどまらず、海外の美術にも影響をあたえ現代でも多くの人に愛され続けています。

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