5分でわかる!伊能忠敬って何した人?

日本地図を書いた人ってだけは知ってますよね。どんな人だったかお話しますね。

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生い立ち

子どものころ。

千葉県で生まれました。物心がつく頃には、知りたがりで何でも知っていないと気が済まない性格でした。

「知りたい!」「学びたい!」知識への渇望感が人一倍強かった。その中で、興味を持ったのは算術であった。計算すれば、何でも知りたいことがわかると。

結婚。

年頃になると、「伊能家」の婿養子となった。伊能家は酒やしょう油を作る大きな商家だった。

伊能忠敬の誕生である。

伊能家に婿に入ってすぐに、大好きな算術によって、どんどん大きくなり繁盛していきました。

伊能忠敬が商売をする上で3つのことを従業員に徹底させました。

  • うそをつくな!不正をするな!
  • 目上だろうが、目下だろうが相手の意見に耳をかたむけろ!
  • 人と口論するな!いつも謙虚に!

商売をする上で「ごまかす」ことが一番いけないことだということ。そして、自分が「えらい」と思って他人の言葉を聞かなくなると、いつの間にか味方がいなくなって大変なことになるということ。さらには他人と喧嘩しても、何もいいことはない。ということが全てわかっていたのです。

名主(村の代表)となる。

忠敬は伊能家をますます発展することだけでなく、利根川を利用して、村の発展にも貢献しました。堤防や土地の改良事業などにも積極的に協力を惜しみませんでした。

忠敬は自らの3原則により、村人から尊敬され頼りにされる存在になっていったのです。この頃、忠敬は天文学に興味を持ち独学で勉強もしていました。

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天明の大飢饉

浅間山と岩木山が相次いで大爆発を起こしました。関東地方の村々にも火山灰や細かい石ころが降り積もりました。その影響で、イネも作物も枯れ全国に90万人もの餓死者を出す飢饉が発生します。それは忠敬の住む「佐原村」にも襲いかかってきました。

忠敬は蔵にある米はもちろん、食料も買ってきて村中に無料で配る指示をだした。従業員が悩んでいると、

「困っている人のためには無料で提供しなさい!」と鶴の一言で「伊能家」の全財産を村中に配ったのだ。

忠敬のおかげで「佐原村」では、たった一人の餓死者を出すことはなく飢饉を乗り越えたのだ。忠敬は倹約家でしたが、決して「ケチ」ではなかった。必要な時に必要なお金を使うことが大切だと考えていました。飢饉での活躍により、忠敬はますます村の内外の人びとから尊敬されるようになりました。忠敬は婿に入ってから「伊能家」の財産を20倍以上にも増やしたのです。

50歳からの旅立ち

伊能家を息子に継がせて、忠敬は学問修行をしたくて江戸に向かった。天文学の第一人者である高橋至時に弟子入りしました。19歳も年下でしたが、忠敬の勉強熱心さから良い師弟関係を築いていきました。やがて、天体観測では「高橋門下一」と言われるほどになりました。

この頃、地球は丸いことは日本でも知られていましたが、地球がどのくらいの大きさかが分かりませんでした。忠敬は地球の大きさが知りたくて仕方ありませんでした。江戸から北海道までの距離ぐらいを知らないと緯度1度の長さを計算できないことが分かったのです。

その時!幕府から、北海道の地図をつくる依頼が舞い込んできたのです。北海道に外国船がウロウロしているので北海道の正しい地図が幕府は知りたかったのです。

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蝦夷地(北海道)測量へ。

忠敬55歳の率いる測量隊6名は北海道に向かって出発した。昼は一歩一歩測量しながら歩きました。夜は天体観測。17年間もの間、一日も欠かさず測量日記をつけています。日記には測量だけでなく、その土地土地で見聞きしたことや出会った人、差し入れてもらった食料なども細かく書かれていました。

未開の土地の多い北海道の測量は、道が悪くなかなか進めなかったり、何倍もの時間がかかったりと困難を極めました。

第一次蝦夷地測量は、吉岡~函館~長万部~室蘭~襟裳岬~釧路~西別でした。

忠敬は実際に測量をしていない所は、「不測量」と書き空白として、線をつなぎませんでした。

「あまり。利口になるな。想像に頼るな。目で見たものだけを信じるんだ。空白はまたくればいい。実測した通りを正確に地図にあらわすことこそが大事なのだ。」と測量隊に言い聞かせました。

この蝦夷地測量で一番知りたかったのは緯度1度がの距離が27里4分(106キロ)であることが分かったことでした。江戸に帰ると高橋至時師匠と手を取り合って喜びました。

日本地図作成の測量へ

  • 第2次測量ルートは伊豆半島から房総半島を回り、下北半島までの東海岸を測量。
  • 第3次測量ルートは東北地方の日本海側と越後街道を測量。
  • 第4次測量ルートは尾張に出てから関ケ原、福井、北陸をまわって佐渡島などを測量。

「日本東半部沿海地図」を完成させて幕府に提出しました。忠敬は「幕臣」として取り立てられました。第1~第4次測量までの費用のほとんどを忠敬が自分で出していました。その額、現代では数千万円とも言われています。今後は「幕臣」となったので、測量費用は幕府が正式な費用として出してくれることになったのです。

  • 第5次測量ルートは東海道から紀伊半島をまわり、大阪、京都、近江、琵琶湖へ。山陽道を下関まで行き、瀬戸内海の島々まで測量していきました。
  • 第6次測量ルートは大和、伊勢、淡路島と主に四国でした。
  • 第7次ルートは九州地方へ。
  • 第8次ルートは山陰道から九州の対馬、九州、五島列島、屋久島、種子島でした。

忠敬はこれ以降の測量には実測していません。江戸で集められた測量の成果をもとに正確な地図の作成に取り掛かりました。

忠敬は今までの「国絵図」ではなく、「日本のかたち」というものにこだわった。大名の名前や石高でなく、我々の国、想像ではなく本当の日本を知ること。それこそが、全日本国民に対しての国の誇りとなりえるのだと。200年後もずっと残るものだから。

伊能忠敬永眠

西暦1818年。伊能忠敬永眠。享年73歳。伊能忠敬が測量のために歩いた距離は約4万キロ。これは地球一周をほぼ同じ距離である。

「地球の大きさが知りたい!」から始まった測量が地球と同じ大きさだけの距離を歩いたなんてなんて素晴らしいことだろう。

忠敬の死から3年後「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成した。弟子たちは地図の完成まで忠敬の死をかくしました。忠敬の仕事として地図を発表しました。忠敬の素晴らしい人間性がここから見られます。

伊能忠敬の地図は明治時代になってからも非常に貴重なものとして使われ続けました。

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まとめ

50歳にして、新たなことに挑戦する行動力はすごいことだと思う。みんなが新しいことに挑戦したいと思っていてもなかなか実行できることができないことが普通だと思う。今も昔も、現状維持が一番の選択だと思っている人が多いのではないだろうか。

そんなことは考えずに「年甲斐もなく・・・」と周りから言われようとも、自分は自分で生き抜く。

大人になればあきらめることが多くなっていくのではなく、やりたいことは実行していくことが大事なことなんだと考えさせられた。俺も見習って、いろんなことに興味をもって「知りたい!」「学びたい!」と増やしていこう。

なんだ、かんだITに強くなければ!

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