5分でわかる!キュリー夫人って何した人?

偉人の伝記の中で必ず名前を聞いたことはあると思います。

でもキュリー夫人は何をした人か答えられますか?

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キュリー夫人の発見したもの

結果から言ってしまえば、

「ラジウム」「ポロニウム」の発見です。

「それって一体なんなん??」って質問が皆さんから飛んできたので答えましょう!

「ラジウム」と「ポロニウム」もどちらも放射性物質です。

「それを発見したのが、なんですごいの?」

時は西暦1900年代。放射性物質は自ら光り輝く魔法の物質だったのです。まさに夢の新薬とされ、様々な商品が作られるようになる。

ラジウムを肥料にすれば味の良い穀物を大量に作れるとか。「ウラン薬」や「ラジウム薬」を薬局の棚に並べ、ラジウム注射のような放射性物質を使った治療薬を次々と開発して、糖尿病、胃潰瘍、結核、癌などあらゆる病に活用しようとしたのだ。

他にも、膨大なラジウム関連商品として、放射性歯磨き、放射性クリーム、放射性ヘアトニック、ラジウムウォーター、ラジウム入りチョコバーなど。

ラジウムは天体が太陽光と調和するように人体組織によく調和すると信じられていた。当時は放射性物質の危険性がまったくのゼロだったのだ。

今では本当に信じられない話と思われるが、発見された当時は人類は無知だった。

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ラジウムガールズ裁判

ラジウムの危険性と言えば、ラジウムガールズが一番に思いつく。

1920年代頃。時計の文字盤にラジウムを塗料のように使うことで、文字盤が光るようになる。時計を作っていた女性工員たちが、放射性中毒となり、体調不良などをおこし始めた。その損害賠償責任の裁判をラジウムガールズ裁判という。

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キュリー夫人の生い立ち

マリア・スクロドフスカ(マリー・キュリー夫人)はポーランドのワルシャワで5人兄弟の末っ子として生まれた。当時のポーランドは戦争で負けてまわりのロシアやオーストリア、プロイセン(ドイツ)に分割されて占領されていました。ワルシャワはロシア領となっていた。マリーの父は教員だったがロシア領でうまくいかず、教員を辞めてしまった。その後、姉と母を病気で亡くした。とても裕福な暮らしとは言えない生活だった。

それでもマリーは学校の成績は優秀だった。夢は

「物理や化学の解明されていない謎を研究してみたい!」

しかし、マリーは姉がパリで医師になる夢をかなえるために、家庭教師などをしてお金を姉に送り続けた。そして姉は医師になった。同じポーランド人の医師と結婚もした。

姉が一段落したので、マリーは子供のころからの夢をかなえるために、姉を頼りにパリに向かった。

1891年24歳(マリー)。ソルボンヌ大学での猛勉強の日々。

運命の出会い

大学で同じ研究者のキュリーくんと出会う。二人とも研究バカの変わり者なので、すぐに打ち解けることができた。

しかし、ソルモンヌ大学を卒業したら、いよいよ、お別れの時なのです。マリーは卒業すると実家のポーランドに帰りました。

その後、キュリーくんからの熱烈なお手紙が届いたのです。

「あなたがポーランドを離れられないのなら、僕がポーランドにいきます。どうか、僕と結婚してください。」

1895年マリー27歳。ふたりは結婚しました。

ここが、キュリー夫人の誕生です!

ラジウム発見!

博士号を取るためには、新しい研究テーマが必要なのです。マリーは研究テーマを探していました。ウラン鉱石の出す放射線について、これは何なのかということに興味を持ちました。、ウラン以外にも放射線を放つ物質がないか調べることにしたのです。

ピッチブレンド鉱石(ガラスの色付け用にウランを取り出した残りかす)を細かく砕き、ドロドロに溶かして、必要のないものを取り除く作業。この地道な作業に4年もの月日が流れました。ウランより強い放射能を持つ「ポロニウム」を発見した。でもポロニウムを取り出したはずの、残りかすからもまだ強い放射能が出てるのだ。

そして、暗闇の研究室の中で、青白く綺麗に光るものを見つけた。これが「ラジウム」だ。

ラジウムは8トンにもおよぶピッチブレンドから取り出された、たったの0.1グラム。

ラジウムの発見により、マリーはヨーロッパで初めての女性の博士になりました。またノーベル物理学賞を受賞したにも関わらず欠席したのも有名な話です。

ラジウムの作り方も、知りたい人には特許やお金を取ることなく、化学の発展のために無償で教えてあげたことも素晴らしい逸話として残っている。

2人の子供には恵まれたが、39歳の時、キュリーくんが馬車にひかれて亡くなってしまう。

その後、ノーベル化学賞を受賞する。ひとりで二度のノーベル賞の受賞は驚くべきことだ。

第一次世界大戦の時には、レントゲンを積んだ車に乗って戦地の病院をまわった。身体に残った弾の位置が正確にわかるのでそこを手術で取り出せるのだ。

1934年マリー(66歳)永眠

マリーの生きた時代、女性は家にいるのが当たり前とされていました。

その中でマリーは自分の力で夢をかなえ、

妻として、

母として、

科学者として、

みごとに生ききった人だと言えるでしょう。

まだ遅くない!資格は大事だ!

キュリー夫人の残した言葉

  • 人生にとって大切なのは、忍耐力と、なにより自信をもつこと。
  • 嵐のあとにも、青空が戻ってくることを、信じ続けなくては。
  • 人類には、仕事の成果をお金に結びつけることができない夢想家も必要だ。
  • 人はみな、なんらかの天分に恵まれているもの。そしてその天分は、どんなことがあっても花開かせるべきもの。

などが残されている。

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5分でわかるキュリー夫人の動画もありますので、こちらもどうぞ。

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