5分でわかる!ナポレオン。

誰もが知っているナポレオンは、フランスの皇帝まで昇りつめました。小さなコルシカ島の貧しい家の出身でした。彼の素晴らしい人生を一緒に見てみましょう。

男女問わず、肌って第一印象だから早めに治そう。

少年期

1769年にフランスのコルシカ島で生まれました。10歳の時に親の勧めで兄と二人でフランスに行き勉強することになります。コルシカは当時イタリア領だったので、フランス語の壁に苦労します。しかし、負けず嫌いのナポレオンは猛勉強して3年連続で優秀な生徒として表彰されました。

図書館にこもって、尊敬するアレクサンドロス大王やカエサル(シーザー)を読みふけっていました。学校の雪合戦の大会でも素晴らしい作戦を立てて、一気に形勢逆転して大勝利にしていました。

その後、パリの陸軍士官学校に入学しました。この時期に愛する父が亡くなり、優秀な指揮官になることを誓います。16歳の時に南フランスに少尉として勤務することになりました。

そんな中、大事件が起きます!

1789年バスチーユ牢獄襲撃事件です!

これは、当時ベルサイユ宮殿で贅沢をしている王族や貴族がいました。それに比べて市民たちの生活は貧しかったのです。市民たちは王と貴族だった政治を民衆のものにするために立ち上がったのです。その最初の狼煙が、政治犯がたくさん捕まっているバスチーユ牢獄を襲撃して解放することでした。こうして「フランス革命」が始まりました。

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青年期(休む間のない時期)

フランス国内は乱れ始め、1793年には、ルイ16世とマリー・アントワネットは処刑されてしまいます。そのころ、ナポレオンは生まれ故郷のコルシカ島に帰っていましたが、島のリーダーであるパオリに追われて島から逃げます。パリに戻ってフランス人として生きることを決めます。イタリア読みのナポリオーネの名前をフランス読みにしました。

ナポレオン・ボナパルト(24歳)の誕生でした!

南フランスのマルセイユのツーロンの町にナポレオンはいました。革命に反対する反乱軍の勢いは予想以上に未だ強かったのです。何故なら、フランスを分断しようとするイギリス軍が裏で支援していたからです。

ナポレオンは丘の上からイギリス艦隊を大砲で砲撃する許可を得ました。この時、ナポレオンは兵士と共に汗水垂らして大砲を丘まで運んだ。これが兵士達の心を大きく打ちました。当時は貴族や指揮官は命令するばかりで何も手伝わなかったのです。兵士達の士気は上がり、砲撃確立も効率も上がりイギリ艦隊を撤退させることに大成功したのです。

ナポレオンは陸軍少将(25歳)に出世し、「ツーロンの英雄」として瞬く間にフランス中に広まりました。

それから1年後、ナポレオンは軍の司令部に呼ばれました。今の政府に反対する民衆が暴動を起こしていました。その暴動を鎮める命令でした。ナポレオンは、同じフランス人同士で争っている場合ではない。諸外国がフランスを虎視眈々と狙っているのに気づかない首脳陣に苛立ちはありましたが、軍人として逆らうわけにはいきません。ナポレオンは覚悟を決めました。

パリの街中で、40門の大砲を暴動している民衆に向けて撃ちまくりました。反乱は瞬く間に静まりました。

ナポレオンはこの暴動鎮圧によりフランス軍の国内軍最高司令官に任命されました。

その後、ナポレオン(26歳)は舞踏会で6歳年上のジョセフィーヌと出会い結婚しました。

この頃、イタリアに攻めてきたオーストリア軍と戦うために国内軍最高司令官としてナポレオンは北イタリアに進撃します。オーストリア軍との決戦はポー川上流のアッダ川の橋でした。ナポレオンは軍旗と剣だけを持って一人で突撃したのです!兵士達はナポレオンをここで死なすわけにはいかないとナポレオンに続いて突撃したのです。フランス軍は見事にオーストリア軍に勝利しました。それにより、フランスは現在のベルギーとドイツ西部を手に入れました。

ナポレオン(28歳)は「常勝将軍」と呼ばれるようになりました。

この頃、イギリスはインドを支配していて、大きな利益を得ていました。そこでフランスは両国の間に位置するエジプトを押さえ、両国の交通を断ち切ろうとしたのです。そのエジプト遠征したのがまたもやナポレオンでした。

フランス軍は順調に敵を破り、エジプトの首都カイロに入りました。ところがその一週間後、イギリスのネルソン提督によってナイル川河口のフランス艦隊が全滅させられました。エジプトのカイロに足止めとなったのでした。しかし、ナポレオンは160人を超える学者を連れてきていました。軍事だけではなくエジプトの学問も大切にしていた証です。学者たちの研究成果は「エジプト誌」という大きな本にまとまりました。その中にはあの有名な「ロゼッタストーン」も含まれています。

そんなある日、イタリアがオーストリアに奪い返され、ドイツでも負け続きという情報がナポレオンの耳に入ってきました。ナポレオンはわずかな部下を連れてそっとフランスのパリに向かいました。パリに向かう船の中で、政府を変えるために自分はどうすれば良いか悩みます。

ナポレオンは、国民の人気を武器に武力によって議会を解散させます。これが

「ブリュメールのクーデター」です。

クーデターにより、ナポレオン(30歳)は第一執政となりました。それは国王と同じくらいに権力のある地位でした。

イタリア奪還のためにオーストリアと再び戦わなければなりません。ナポレオンは、「大サン=ベルナール峠」(アルプス山脈)を越える策を実行します。考えてもなかった場所からフランス軍が現れたことに、不意をつかれてオーストリア軍に大勝利します。あの馬に乗った有名な絵はこの時のものです。

オーストリアにイタリアからの撤退を約束させました。

君には明日生きていく武器はあるの?資格は早めに持っておこう。

ナポレオンの功績

ナポレオンは戦争ばかりしていたわけではありません。

  • 役人の給料や税金の額をきちんと決めました。
  • 公立の学校を建てて、貧しい人でも教育を受けられるようにしました。
  • 橋や運河を作って交通の便利にしました。
  • 「ナポレオン法典」と呼ばれる法律を作りました。これは世界中の法律の手本とされています。日本の民法にも影響を受けています。

ナポレオン法典はナポレオンの隠れた功績だと言われています。

壮年期

1804年ナポレオン(35歳)の時、国民投票により皇帝に即位しました。コルシカ生まれの彼がついにフランスの頂点に立った瞬間でした。

ここで不思議なのは「市民がつくる政治」の革命は強い指導者によって簡単に変わることなんですね。

この後は時系列に話していきますね。

  • この頃、対フランスのため、イギリスとオーストリア、ロシアが手を結びました。
  • 「ウルムの戦い」でオーストリアに勝利しました。
  • しかし、トラファルガル沖でフランス・スペイン連合軍がネルソンのイギリス艦隊に敗れました。
  • アウステルリッツでオーストリア・ロシア連合軍と戦闘して大勝利。この勝利のすぐ後にフランス軍の名誉を称えて建てられたのがパリの「凱旋門」です。
  • ナポレオンの勢いは止まりません。兄をナポリ国の王に、弟ルイをオランダの国王にしました。
  • プロイセン軍(ドイツ軍)を破りベルリンに入場しました。
  • ヨーロッパのほとんどを制することができました。残るはイギリスだけです!
  • ヨーロッパ諸国に対して「大陸封鎖令」を出しました。イギリスとの貿易はするなということです。
  • ロシアにはフランスと友好国となることを誓わせました。
  • スペインを完全支配するためにナポリ国王だった兄をスペイン国王に就かせました。
  • スペイン各地で反乱と暴動が広がり始めました。
  • スペインの反乱を機に、オーストリアがライン連邦(ドイツ)に進出してきます。
  • 接戦の末に進出してきたオーストリア軍に勝利しました。
  • オーストリアとの長年の戦争を止めるために、オーストリアの王女と結婚をします。ジョゼフィーヌとは離婚します。
  • ナポレオン(41歳)はオーストリア皇女マリー・ルイーズ(18歳)と結婚しました。
  • ロシアが約束を破ってイギリスと隠れて取引を始めたことが発覚しました。
  • ナポレオンは裏切りのロシアに侵攻します!

ドラレコって今の時代必需品だよね。ひょっとしてまだ付けてないの?

ロシア侵攻

いくつもの同盟国軍を含む約70万もの軍勢がロシアの大遠征に向かいました。しかし、国境を越えてもモスクワへの道は長く遠く熱射病になるほどの暑さに見舞われたかと思うと夜は凍えるような寒さが兵士達を苦しめました。

スモーレンクスという町で、ロシア軍はやっと戦闘態勢に入ったかと思われたが、街の全てを焼き払って撤退していきます。井戸にも動物の死骸を投げ込んで飲めないようにするのです。

ロシア軍はわざと逃げてフランス軍を疲れさせる作戦をとっていたのです。自分たちの町を燃やしながら逃げていく、姿の見えない不気味なロシア軍。フランス軍の兵士たちは次第に不安を募らせていきました。

モスクワの西にあるボロジノで初めての大きな戦いになりました。12時間の戦いで10万人以上の死傷者を出しました。しかし、決着は付きませんでした。

そして、ロシアの古都モスクワに到着しました。しかし、ロシア皇帝との和平交渉は失敗。フランスに引き上げることになりました。

ロシアからフランスへの帰路。「冬将軍」によって食料も馬も命もなくしてしまいます。70万の兵士は生還したときはわずかに2万人だけでした。

ナポレオンと対立していた諸外国がこの機会を飲み逃すはずはありません。ロシア・プロイセン・オーストリア連合軍はフランスを包囲してパリに入城しました。ナポレオンが皇帝から退位することを要求して、ナポレオンはこれを受託しました。ナポレオン(45歳)は地中海に浮かぶエルバ島に流されることになりました。

ナポレオンがフランスからいなくなると、ヨーロッパ各国の首脳が集まり国境線を決めていましたが、自分のことばかりで話が進みません。これをウィーン会議と言います。

そんな中、ナポレオンがエルバ島を脱出してフランスに帰ってきました。

「外国に抑えつけられたフランスでいいのか?私がフランスの栄光を取り戻す!君たちも名誉のために立ち上がるのだ!」

ナポレオンに味方する人たちがどんどん増えていきました。

イギリス軍の名将ウエリントン公率いるイギリス軍との決戦。世にいう

「ワーテルローの戦い」

序盤はナポレオンが優勢でしたが、叩いたはずのプロイセン軍がイギリスの援軍に駆け付けたのです。「ワーテルローの戦い」は3日間で終わりました。ナポレオンは百日足らずの権力でした。「ナポレオンの百日天下」と言います。たくさんの映画や物語になってますので、是非ご覧になってください。

その後、ナポレオン(46歳)は大西洋に浮かぶ絶海の孤島セント=ヘレナ島に流されます。

享年51歳

セント=ヘレナ島で1821年5月5日息を引き取りました。死因はいまだに謎に包まれています。

その死から、19年後の1840年、亡骸は彼が建設しを命じたパリの凱旋門をくぐって50万人もの市民に出迎えられたのでした。

これ1本でハリと潤いがよみがえる。やっぱり「え~~。同じくらいの年齢かと思いました~」って言われたい。

ナポレオンが残した言葉

  • 私は法典を作りあげた、それは私の名をはるか遠い時代にまで伝えてゆくだろう。
  • 私の辞書に不可能という文字はない。

私たちは忙しい。時間を有効的に。眠りながら肌を生まれ変わらせる。

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