5分でわかる!野口英世って何した人?

赤ちゃんの頃に左手を囲炉裏で火傷して、開かなくなった手を医学によって手を開くことができた。その感動で医学の道を突き進んだことは知ってますよね。

でも何をどうした人なんだろうか?

技術はあなたの力になる!

生い立ち

事故

野口英世は野口清作の名前で、1876年明治9年に福島県で生まれました。赤ちゃんの時に母がほんのわずかな時間、目を離した時に囲炉裏に落ちてしまって、左手を大火傷しました。清作の小さな左手は水飴のように焼けただれてしまいました。治った時には指の全ては手のひらにくっついて、開かなくなってしまいました。

しかし!この不自由な左手が彼に努力と忍耐の才能を与え、医学の道へと導き、世界の救世主「野口英世」となったのです。

小学校時代から高等小学校時代

左手が不自由だったために、農家を手伝うことができなかった。学校でもいじめられていた。でも、母との約束で勉強だけは誰よりも負けないように努力した。その努力あってか、生徒に教えることができる「生長」という仕事を得ることもできた。清作はもっともっと勉強したいという欲求に駆られてしまう。しかし、家が貧乏なために進学することもできない。

そんな中で運命の人、教師「小林栄先生」と出会う。これだけの努力家なのだから、是非とも進学させたい。と学費を全部、小林先生が援助してくれた。

高等小学校へ入ると、英語や漢文、国語や数学も得意になっていた。寝る間を惜しんで勉強していた。この頃、清作は「小林先生」のような立派な教師になることを志していた。

ある日、清作の作文がみんなの前で読まれた。それは、開かない左手のことである。感動の作文は皆の心を打った。みんなでお金を出し合って清作の左手の手術をすることになった。

左手の手術

外科医師「渡部鼎(わたなべ かなえ)」によって清作の左手の手術が行われた。手術から1か月後、清作の左手の指が手のひらから離れて動いたのだ!

「なんて、素晴らしい!医学の力!!」

清作の進路が、この感動から「教師」から「医師」へと変わった。しかし、医師ともなると小林先生の援助だけでは到底お金が足りません。小林先生の勧めで、「医師開業試験」という準国家試験の制度を受けることにした。医者不足だった当時、金銭的問題などで医学校にいけない人たちが受けることができるのだ。これに合格すれば、誰でも医師免許が取れたのだ。

「渡部鼎」医師の元で住み込みで雑用をしながら、「医師開業試験」を受けることにしました。清作はとにかく勤勉で真面目でした。寝る間を惜しんで勉学に努めたのです。

ある日のこと、「渡部鼎」医師の元に東京から「血脇守之助」歯科医師がやってきました。血脇歯科医師は清作と話して医学の知識量と語学力に驚愕する。

「東京に来る時があったら、是非私のもとを訪ねてきなさい。」と言われるほど気に入られました。

そして、「医師開業試験」を受けるために上京したのです。

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東京

上京すると「血脇」歯科医師の元でお世話になりました。「医学開業試験」は20歳の若さで合格しました。そして、順天堂病院に就職しました。

しかし、清作はこの左手では現場の医療は難しいことを知りました。そこで細菌学者になることを決意したのです。当時、「細菌学の父」と呼ばれるドイツのコッホに学んだ細菌学の権威、北里柴三郎のもとで働きたいと考えるようになりました。北里柴三郎の元で働けたのですが、つまらない仕事ばかりを押し付けられました。大学卒業でないと正所員になれないという、学歴による差別に憤りを感じていた。

そんな折、アメリカから「フレスキナー」博士が来日しました。英語が堪能なのは清作だけだったので通訳はと案内を任されました。優秀な清作は「フレスキナー」博士からもアメリカに来る時があれば、訪ねてきてくれと気に入られました。

この時期に野口英世と改名します。名付け親は福島の「小林」先生でした。

野口英世の誕生だ!

野口英世はその後、横浜の開港検疫所で働くことになる。ここで、大手柄をあげることになる。ペスト患者の発見をしたのです。英世のとっさの判断が日本へのペストへの侵入を食い止めたのでした。その働きが認められて、中国で流行しているペスト治療の日本医師団に選ばれました。

世界へ

中国での仕事は、語学も早く覚え順調でした。野口英世の診察室には列が続いたと言われています。欧米医師団にも高く評価されました。日本では学歴の壁があるけど、世界では実力通りに評価されることを知ったのです。

野口英世は24歳の時、「血脇」医師のお金でアメリカ留学に行けることになったのです。

英世はアメリカに着くと、フレスキナー教授の元を訪れて、雇ってもらうことになりました。蛇毒研究の助手の仕事をすることになったのです。

研究の日々と帰国

  • 蛇毒についての学会に助手なのに、連名で発表された。
  • 梅毒の純粋培養に成功。
  • 神経性麻痺と梅毒の関係性を証明した。
  • 小児麻痺や狂犬病の病原体も次々と発表する。

とにかく、努力と根性としかない研究の日々でした。日本人は2日に一度しか寝ないのかと疑われたくらいに英世は研究に没頭していた。

この多忙な時期に「メリー・ダージス」と結婚もした。

そんな中で、日本の母から手紙が届く。

「略、はやく、いえにかえってきてください。いっしょうのたのみです。にしをむいてはおがみ、ひがしをむいてはおがみ、きたをむいてはおがみ、みなみをむいては、おまえにはやくかえってきてほしいとおがんでます。略。」

字の書けない母が、一生懸命、ひらがなだけの手紙を送ってきたのです。どれだけ勉強したのだろう。

英世はすぐ日本に帰る決意をします。大正4年、15年ぶりの帰国。

母、血脇、小林夫妻とともに関西旅行に出かけた。15年間の空白を埋めるかのように母子はいつもいつも一緒に過ごした。

英世は2か月後、アメリカへ旅立っていった。

黄熱病

黄熱病は、熱帯アフリカと中南米に発生する風土病である。ネッタイシマカが媒介する感染病だ。英世はわずか9日目には黄熱の病原体を発見してワクチンを作り、兵士に接種した。ワクチンが効いて黄熱にかかる人が減少したのだ。そのニュースは世界を駆け巡った。

黄熱病が一段落すると、母が肺炎を患い66歳で息を引き取ったという知らせを受け取る。だが、帰国することなく研究をつづけた。この時期にオロヤ熱に病原体に取り掛かっていたからだ。このオロヤ熱の病原体がペルーいぼ病と同じ病原体であることを証明した。英世の生涯で2番目に大きな偉業である。

ここで母の墓前に参りたいと日本帰国しようと考えていたのだが、黄熱病が流行し始めた。英世が作ったワクチンが効かないのだ。

黄熱病は細菌ではなく、ウイルスかもしれない。。。

当時ウイルスは顕微鏡では見えない病原体だった。英世は西アフリカに行くことを決意する。現地で黄熱病の病原体の解明に取り組んだが、道半ばで黄熱病にかかり亡くなってしまった。享年51歳

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最後に

伝染病に命をかけた栄光と悲劇の野口英世の一生は、今もなお日本のみならず、世界中で語り継がれている。

野口英世の言葉にこのような言葉がある。

「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは自分と未来だけだからだ。」

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