5分でわかる!リンカーン

23605: Formal portrait of Abraham Lincoln, February 9, 1864 (C) Wisconsin Historical Society/Courtesy Everett Collection

1809年アメリカ合衆国ケンタッキー州で貧しい開拓民の家に生まれました。本名をエイブラハム・リンカーン。彼は様々な職業を経験して、やがて政治の道に進みます。そして、アメリカ合衆国第16代大統領になりました。奴隷制度に賛成する州と反対する州の間で南北戦争が始まるとリンカーンは奴隷解放宣言に署名しました。

リンカーンがどんな人物だったのか一緒に見ていきましょう。

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幼少期

貧しい農民の子、リンカーンは学校に好きな時に行くことができませんでした。でも文字を覚えると本を持っている人の家に行っては、貸してもらって読んでいました。

9歳の時にミルク病(毒草を食べた牛からの乳を飲むと中毒症状を起こす)で亡くなってしまいます。

10歳の時に、父は再婚をして大家族となります。再婚相手のサリーは明るく優しい女性で子供たちを分け隔てなく愛しました。そのおかげで、リンカーンは勉強熱心で正直者で働き者だと評判の青年と育っていきます。

青年期

17歳になると背丈が190センチを超える大きく逞しい青年となりました。ある日、農家のお手伝いで農作物を船で作物を運ぶ仕事をしていた時です。

「君の船であの蒸気船まで運んでくれ。」と頼まれて乗せていってあげたら、50セントももらったのです!農家で一日働いて25セントなのに。運ぶだけで倍もらえるなんて!リンカーンは蒸気船に人々を送る仕事をすることにしました。そんなある日のこと、渡しの許可証の有無で治安判事のとこに連れていかれることになりました。その場でリンカーンは、

「岸から岸ではなく、岸から蒸気船までの渡しです。」と答えて許されることとなりました。しかし、リンカーンはこの時、世の中にはルールが決められてあることを知ったのです。法律に興味を持ちました。リンカーンは裁判を見学して法律を独学で勉強しました。

「法律は国民全員に平等なものだ。」ということを知ったのです。

21歳の時。

リンカーンは家族と離れて独り立ちしました。22歳の時、雑貨商のオファットさんに雇われて義理の弟ジョンと商品を売りながら、ニューオリンズまで川を下ることになりました。ニューオリンズまではピジョンクリークから片道2千キロ、1か月の船旅です。ニューオリンズは大きな港町でした。そこで、リンカーンは初めて奴隷市場を目の当たりにしたのです。健康で若い男から母子まで。人間が値段をつけられて売られていくことに衝撃を受けた。ここは自由の国アメリカなのに!

22歳の時。

雑貨商のオファットさんがニューセイラムに雑貨屋さんを開き、リンカーンにそのお店を任せました。リンカーンは字が読めない人に新聞を読んであげたり、荷物を家まで運んだり、親切で正直だったのでとても人気がありました。こうして地域の人たちはリンカーンを高く評価するようになりました。

町の討論クラブにも参加して町のことから国の政治のことまで意見を出し合い話し合いました。学のないリンカーンが学のある人たちから認められて州議会議員に立候補することになりました。イリノイ州議会選挙は残念ながら落選してしまいました。

雑貨屋も事業に失敗して閉店することになり無職になってしまいました。友人たちの勧めで郵便局長をすることにりました。局長と言っても一人だけだったので配達も全部するのです。測量の仕事もしました。測量の知識も独学で覚えました。

25歳の時。

再び、イリノイ州議会議員選挙に立候補すると、初当選しました!これも郵便局や測量をしていてリンカーンの人柄を知ってくれる人が増えたからでした。

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27歳の時。

イリノイ州議員と郵便局長、測量をしながら、弁護士資格を取得した。努力でしかない。弁護士資格を取得するとスチュワートと一緒に弁護士事務所を始めました。リンカーンは弁護士と議員の仕事をしながら政治のことも考えていたのです。

33歳の時。

メアリー・トッドと結婚しました。

37歳の時。

アメリカ合衆国下院議員に選ばれました。下院議会の時に

「メキシコとの戦争は正当ではないので、やめるべきだ!」

と発言したことが非国民にされてしまいました。任期を務めあげたリンカーンは次の選挙は出ませんでした。弁護士としてもっと自分を磨くことにしたのです。リンカーンは巡回弁護士としてあちこちの街を回りました。事件やもめ事で困っている人々は弁護士で誠実で公平なリンカーンを頼りにしました。

45歳の時。

リンカーンは周囲の人に勧められて、当選していた州議員を辞職して連邦上院議員に立候補しましたが、落選してしまいました。

49歳の時。

再び連邦上院議員に立候補し、民主党のダグラスと争うが、落選してしまいました。落選してしまいましたが、ダグラスとの討論会は広く国内で知られることになりました。

討論会の焦点

ダグラス「独立以来、南部の奴隷制度は認められてきた。州の問題はそれぞれの州で決めるべきである。それぞれの州の法律は住民が決める!それが自治権である。」

リンカーン「自分の手で得たパンを口にする権利は、白人黒人に関わらず全ての者に平等に認めなければならない。奴隷制度は人道的に悪です。これ以上奴隷制度が広がることに反対します!」

51歳の時。

リンカーンは共和党の大統領指名選挙で大統領候補に選ばれました。この時、ニューヨークの11歳の少女(グレース・ベデル)から手紙をもらいました。

「私は、あなたに大統領になってほしいと願っています。もしあなたがお髭を生やしたらもっと素敵に見えると思います。そうしたら女性達はあなたに投票するように自分の夫にせがむでしょう。女性に投票権はありませんから、私は周りの男性たちにあなたに投票するように呼びかけます。」

リンカーンは返事を書くと、髭を生やすことに決めました。

第16代アメリカ合衆国大統領に就任しました。

52歳の時

リンカーンが大統領になると、南部の人びとの間に不安が広がりました。奴隷制度継続のために離脱した南部7州はアメリカ連合国を結成しました。リンカーンは大統領就任演説で人々に訴えます。

「内戦の危機を避ける鍵は私の手にではなく、諸君の手に握られています。我々は敵同士ではなく友であります。我々は敵同士であってはいけないのです!」

しかし、南軍のムールトリー要塞は北軍のサムター要塞を砲撃しました。これが南北戦争の始まりです。

北軍が有利と言われていたが、南軍が負ければ奴隷制度を中心とした南部の社会は崩れることになります。そのため、南軍は死に物狂いで戦いました。その結果南軍はワシントンD・Cに接するメリーランド州に侵攻。

両軍合わせて2万2千人の死傷者がでる激しい戦いとなりました。南軍が退却したタイミングでリンカーンは「奴隷制度解放宣言」をしました。

1863年7月1日

北部ペンシルベニア州のゲティスパークで両軍が衝突し、これまでにない激しい戦いとなりました。3日間の戦いで死傷者は両軍合わせて約5万人にもなりました。多くの死者を出したゲティスバーグに軍人墓地が作られることになりました。

1863年11月19日

ゲティスバーグ軍人墓地でのリンカーン大統領のスピーチ、リンカーンの声は祈るように小さかったといいます。わずか2分の演説でした。後にゲティスバーグ演説と言われます。

「87年前、我々の祖先は全ての人が平等であるという信条に基づいた新しい国を、この大陸に打ち立てました。現在我々は国内戦争のさなかにあり、この自由な国が永続できるできるかどうかの試験を受けています。我々はこの国家が永らえるようにと、ここでその生命を投げ出した人びとの最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるために集いました。

しかし、我々はこの土地を清め捧げることはできません。ここで戦った勇敢な人びとこそこの場所を清め捧げたのです。ここで戦った人々が立派に進めてきた未完の事業に身を捧げるべきは我々自身です。

それは、戦死者の死を決して無駄にしないため、この国で、神のもとで、自由が再び誕生するため、

そして、人民の人民による人民のための政治を地上から無くさぬようにするためです。」

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55歳の時

リンカーンは第2期大統領に就任しました。

就任演説。

「我々は誰に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛を持って、われらの着手した事業を完成するために努力しようではありませんか。わが国民、そして全ての諸国民に正しい永遠の平和をもたらし、あらゆる努力をしようではありませんか。」

南北戦争終結。

約60万人もの戦死者を出し、4年間続いた南北戦争は終わり、リンカーンはアメリカ合衆国の再建という仕事に取りかかります。

享年56歳。

ワシントンD・Cのフォード劇場で銃で撃たれ暗殺されました。

自由と平等。そしてアメリカ合衆国に人生を捧げたエイブラハム・リンカーン。彼の信念は今を生きる人びとに忘れられることなく生き続けているのです。

リンカーンの残した言葉。

  • 君の決心が本当に固ければ、もうすでにその願いの半分は実現している。必ず成功させるのだという強い決意こそが何よりも大事であることを忘れてはならない。
  • 今日の努力は今だけのものではない。それは遠い未来のためでもあるのだ。
  • 労働は真に価値のあるものだ。
  • 私にとって何より大切なのは、仲間から心より尊敬されること。努力をすることで、その尊敬される価値のある者になることだ。
  • 他人の自由を否定する者は自分も自由になる資格はない。
  • 人民の人民による人民のための政治を地上から決してなくさない。

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