5分でわかる!渋沢栄一

何故、今渋沢栄一なのか?というと、新一万円札の顔が福沢諭吉から渋沢栄一に変わるからなのです。

何をした人かというと、日本経済の父と言われてるんだけど、実業家でたくさんの事業に携わった人です。

有名な企業をいうと

  • みずほ銀行設立
  • 東京証券取引所設立
  • 日本郵船設立
  • 東京ガス設立
  • 東京海上日動保険設立
  • 帝国ホテル設立

など、500以上の事業に関わっています。挙げたらきりがありません。

何故、今渋沢栄一なのか?というと、新一万円札の顔が福沢諭吉から渋沢栄一に変わるからなのです。

体に優しい健康志向の食材って大事ですよね。

生い立ち

1840年に埼玉県深谷市で生まれました。家は藍の葉を卸す農家でした。農家と言っても学問のできる武士のような農家でした。子供のころから、論語(孔子の言葉)を読み漁るような本の虫だったようです。

14歳の時。

浦賀沖にペリー来航で日本に激震が走りました。

16歳になると。

藍の葉の買い付けを任されるようになり、商売の才能が花開きました。

18歳の時。

いとこの「ちよ」と結婚しました。

結婚前は一番素敵な私でいたいよね。

22歳の時。

勉強がしたくて仕事のない農閑期に江戸へ学問と剣術を習いに行きました。坂本竜馬や桂小五郎などもこの時期に江戸へ剣術を習いに行っていますよね。

そして、志を同じくする仲間に出会うのです。それは「尊皇攘夷」の思想。いわゆる幕末の志士たちです。栄一も外国に弱腰の幕府を倒して、世の中を変えてやるという思想を持っていました。

24歳の時。

高崎城乗っ取り計画を立てますが、あと少しのところで従兄に止められ、断念しています。計画だけでも重罪人なので、栄一たちは西に逃げました。

25歳のある日。

平岡円四郎と出会い、一橋慶喜に仕えることになります。その後、一橋慶喜が徳川15代将軍になり徳川慶喜となりました。「尊皇攘夷派」だった渋沢栄一が「幕臣」となったのです。

そして、栄一に人生を変える大きな転機が訪れます。

フランスのパリで行われる「万国博覧会」に招待された徳川慶喜の弟・昭武のお付として同行したのです。ヨーロッパの視察も兼ねていました。

28歳のヨーロッパ視察。

栄一は、世界の文明に触れます。電信、電灯、ガラス、汽車、上下水道、見るもの全てが珍しいものばかりでした。ヨーロッパで色んなことを吸収していきました。ヨーロッパ視察中の最中に、日本での「大政奉還」を知ることになりました。徳川幕府は終わりを告げたのでした。

30歳の時。

栄一は日本に帰国しました。徳川慶喜が謹慎している静岡で、慶喜の身の回りのお世話をするため静岡に住むことになりました。そこで、「静岡商法会所」を設立しました。これは、日本で初めての株式会社の銀行でした。ヨーロッパで得た知識でした。静岡藩や商人から集めたお金でを合わせてお金の貸し借りをしたり、地元の産業や農業の助けに、お金を貸したりするものでした。栄一はその責任者となり大成功しました。

そんな中、明治政府から、声がかかりました。

「少しでも才能のあるものが力を合わせて新しい日本をつくるべきなのだ。今こそあなたを力を借りたい。」

慶喜公からのご推薦もあり栄一は明治政府で税制の整備の仕事をすることになりました。

そこで、栄一は改正掛という部署を作った。ここでは調査・準備し、決まったことはすぐさま法律化できるようにしたのです。また、人材もどんどん抜擢しました。

前島密や赤松則良などである。富岡製糸場や郵便制度、貨幣制度なども整えました。

34歳の時

しかし、お金を軍備など、無駄な事に湯水のように使う政府のやり方に絶望した栄一は大蔵省を辞職しました。

辞めるなら、やっぱり手に職だ!

35歳以降の活動

渋沢栄一は新たな日本に必要なものが見えていたのです。

第一国立銀行(第一勧銀からみずほ銀行になる)を設立したのです。銀行は大きな川でお金は日本中を川のように流れ、その近くにいる人たちが利用できる。経済活動するにはお金が必要です。銀行こそがまさに資本主義の命だったのです。

次にアメリカを手本にして、東京証券取引所を設立しました。こうして株式証券を売買することで、その会社が資金を調達し易くしたのです。

また、当時の物資の輸送は全て船でした。船による輸送で何事もなければよいが、もし時化にあって船が沈没したら荷物が全てパー(無駄)になります。それを防ぐために保険というシステムを作りました。沈没したときはその保険金で保険会社が弁償する約束をすることです。これが東京海上日動保険会社です。

そのほかにもたくさんの事業を手掛けたり、手伝ったりしました。

最後に

渋沢栄一の根本にはヨーロッパ視察が大きく影響していました。自分が体験したことを日本でもできないかという思いだったのです。明治政府は外国に負けない国を作ろうとしたけど、渋沢栄一にとってもそれは同じだったけど、経済の面でそれをなしとげようとしたのです。

そして外国と対等だからこそ、外国から来た人が喜ぶ国を作ろうとした。

おもてなしの精神がすでにあったのです。

渋沢栄一は東京女学館でこんな言葉を残しています。

「学びて時にこれを習う、また喜ばしからずや。」

という言葉が「論語」にあります。物事を学んで、復讐する、なんて喜ばしいことだろうという意味です。私は学生諸君、そして私自身にこの言葉を贈りたいと思います。

栄一は、「論語とそろばん」なのです。利益を得るには、相手に対して喜んでもらう思いやりが必要なのです。

お客様は神様ではありません。また、お金を払っているのだから偉いのではありません。売る方も買う方もWIN・WINの状態でないとならない。この考え方があったからこそ、誰からも信頼される人物だったのではないでしょうか。

渋沢栄一が残した有名な言葉。

「晴天を衝き抜く勢いで腕まくりをして登り、白雲を貫く気力で手に唾して進む。」

読む人によって、意味合いが変わると思います。僕は「やる!と決めたら、すべての力を振り絞ってやってやる!」って言葉だと僕は汲み取りました。

(渋沢栄一記念館所蔵)

生涯勉強!知ることは学ぶことはやっぱり楽しい!

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です